Legacy company?

レガシー企業定義
東愛知日産・代表取締役 青木のキャリア

青木のキャリア01

東愛知日産を興した祖父は渥美半島の出身。農家の次男だったため、家を出てタクシー会社を設立し、運送会社を任されるなど、自動車関連の事業に携わっていました。東三河で初の日産車ディーラーとして名乗りを上げたのは1960年のことです。その後、国内での自家用車の普及拡大の波にも乗り、社業は順調に発展。豊橋経済界で知られた存在となり、後年は商工会議所の副会頭も務めていました。
私は創業から10年経った1970年に生まれました。家がカーディーラーだということは分かっていましたが、クルマに対する興味はまったくありませんでした。ただ、小学生の頃は父親の運転でドライブ旅行に出掛け、日光まで7~8時間かけて行ったことは、いい想い出として記憶に残っています。

自動車産業 栄枯盛衰史01

国民車構想

1955年、戦後初の本格的な乗用車「トヨペット・クラウン」がトヨタから発売されました。価格は大卒の初任給が1万3,000円の時代に約80万円。とても一般のサラリーマン世帯では買えるような代物ではありませんでしたが、復興の象徴として認知され、やがて日本にも自動車時代(モータリゼーション)が訪れることを予感させるに十分な存在感を放ったのでした。1958年には、富士重工業が軽自動車の「スバル360」を発売。1955年に通商産業省(現在の経済産業省)の技官らがまとめた「国民車構想」における価格や性能といった項目を満たしていたため、一般家庭でもクルマは手が届きうる憧れの商品となりました。

「3C」
自動車保有台数1,000万台を突破

1950年代後半以降、可処分所得の上昇とともに日本人のラフスタイルは激変。戦前までの大家族から核家族化が進み、多くの世帯がマイホームを持ち、余暇=レジャーを楽しむ余裕も生まれました。そして1960年、池田内閣が「所得倍増計画」を打ち出し、高度経済成長が本格化。「クーラー」「カラーテレビ」と並んで、「カー(自動車)」が『新・三種の神器』あるいは『3C』と称される、庶民の憧れの商品の1つとなり、「マイカー」という言葉がブームに。こうした動きに自動車メーカー各社は大衆車を次々と発表しました。トヨタは1957年にコロナ、1961年にパブリカ、1966年にカローラを発売。日産は1955年のダットサン乗用車を皮切りに、1959年にブルーバード、1960年にセドリック、1966年にサニーを発売しました。同時期に自動車ローンがスタート、自動車購入のハードルを下げることで、1968年に国内の自動車保有台数(二輪車含む)は1,000万台を突破。1972年には乗用車だけで1,000万台に達しました。

ステータスとしての自動車

高度経済成長期、サラリーマンは終身雇用制のもと、社業の発展とともに出世の階段を上り、所得も増えていくのが当たり前とされていました。そしてクルマもそれに見合う車種が用意されていました。例えば、初めて買うのはダットサン乗用車かパブリカ、少し出世したらサニーかカローラ、課長・部長クラスでブルーバードかコロナ、役員になったらセドリックかクラウン、という図式。このようにしてクルマは、次第に所有者のステータスを表現するアイテムの1つとなっていきました。
高速道路網の整備が進んだ1960年代後半、カッコいいクルマで高速道路を走りたいという願望を持つ人が出てきました。それまでクルマは「家族のもの」と見られていましたが、「個人の願望を満たすもの」という意識が芽生えたのです。それを見越してか、1967年にトヨタがトヨタ2000GTを、1969年に日産がフェアレディZを発売。カーマニア垂涎の的となりました。
1970年、国内の年間旅客輸送において鉄道輸送が160億人であったのに対し、自動車輸送が240億人を記録。2年後の1972年には二輪車を含む自動車の登録台数が2,000万台を突破するなど、日本のモータリゼーションは新たな段階を迎えました。

社会問題の矢面に

あらゆる産業において工業化が進み、著しい経済成長を果たし、1968年には国民総生産(GNP)が米国に次いで世界第2位の経済大国に。国民所得の平準化が進んだことで「一億総中流社会」という言葉も生まれました。このように社会全体が経済成長の果実を手に入れ、国民の多くが物質的な豊かさを享受する一方で、大気汚染・水質汚染などの公害が発生、社会問題化しました。加えて、交通死亡事故が増加、1970年には死者数が16,765名に達し、「交通戦争」という表現も生まれました。さらに1973年、第四次中東戦争の勃発によって原油価格が高騰(第一次石油ショック)、世界中をパニックに陥れました。
工業製品であり、排気ガスを排出し、騒音を発生し、交通事故を起こし、燃料としてガソリンを使用する自動車は、これらの影響をまともに受けました。そして「走る・曲がる・止まる」という基本性能に加え、低燃費・低排出ガス・高耐久性などが開発の重要なテーマとなったのです

青木のキャリア02

小学校・中学校と成績が良くて、生徒会長も務めるなど、割と目立つ存在だったのですが、高校に入ったら普通の人に。成績もスポーツも、すべて人並み。その頃から「俺は一体、何者になりたいのか」と考えるようになりました。そんなモヤモヤした青春時代に熱中していたのが映画でした。学校帰りとかに、よく一人で観に行っていたので、いつしか高校を卒業したら東京に行って、映画をつくりたいと考えるようになりました。早稲田の文学部に進学したのも、映画の仕事が見つかるかもと考えたためでした。
自動車の運転免許は大学の探検部の仲間と山形の合宿免許で取得。東京では運転する機会がなく、帰省した時に家のクルマを運転する程度。ところが帰省した4日目に事故を起こしてしまい、それ以来、クルマの運転を「怖い」と感じ、運転から少し遠ざかっていました。ところが大学3年の時、映画の助監督になり、ロケバスとして使用している1ボックスカーの運転をすることに。都内では殆ど運転していなかったことに加え、初めて運転する車種だったので緊張しながらハンドルを握りました。それでも乗り慣れてくると運転が楽しくなってきて。それ以来、都内でもレンタカーを借りて運転するようになりました。

自動車産業 栄枯盛衰史02

多品種少量生産。
クルマを個性で選ぶ時代に

10年以上続いた高度経済成長が終りを告げた70年代後半。これまでの大量生産・大量消費のいわゆる「使い捨て」の時代は否定され、多品種少量生産の時代が始まりました。時同じくして女性の社会進出が顕著になり、1978年には女性の運転免許保有者が初めて1,000万人を突破しました。こうした流れを受け、1980年代に入ると自動車の多様化・個性化が加速。1960年代の乗用車はコンパクト、ミドル、ラージといったカテゴリーしかなかったものが、1980年代にはクーペ、オープン、SUV、ミニバンなどが加わるとともに、各メーカーが同一カテゴリー内に複数車種を発売したため、市場に出回る車種はおびただしい数に拡大。消費者が個性で選ぶ時代となりました。

バブル景気の到来と輸入車の急増

1985年9月の「プラザ合意」を受けて急速な円高ドル安が進み、1986年秋には1ドル150円台で取引されるようになりました。その結果、日本の輸出産業は大打撃を受けました。政府はこれを緩和するため公共投資を拡大し、金融緩和を継続。すると不動産や株式に膨大な投機マネーが流入し、資産価値の高騰と未曾有の好景気が到来しました。これに煽られるように、高額な飲食や高価なブランド品などが消費されるなど、いわゆる「バブル景気」が始まりました。
円高は輸入業に活況をもたらしました。輸入車の実勢価格が下がり、日本市場に大量投下。「外車販売台数の推移」を見ると、1985年までに5万台を超えたのは1979年の一度だけだったのが、1985年以降、年々販売台数が増え、1990年に20万台を突破。その後、多少の増減はありながら、国内の普通車販売台数の5%近くを輸入車が占めるに至りました。

「失われた20年」の始まり

1986年から始まったバブル景気は、政府の突然の金融引き締め策により、景気は一気に悪化。崩壊へと向かいます。日経平均株価は1989年末につけた3万8,915円をピークに下降し、1990年には約2万円へと暴落しました。「失われた20年」の始まりです。国民1人当たりGDP(国内総生産)の伸びは遅れて鈍化するため、2000年の世界3位から毎年ランクダウンし、わずか6年で18位にまで低下しました。

青木のキャリア03

大学を5年で卒業、広告代理店の「ADK」に入社しました。入社当初は失敗続きで散々な毎日。ところが入社4年目でビッグチャンスを掴み、社長賞を取ると周囲の評価は一転。広告プロデューサーとして、忙しくも充実した日々を送っていました。
今の妻と知り合ったのも、その頃。デートに誘ったところ、「ドライブに連れてってくれるならOK!」と言われました。どうしてもデートに漕ぎ着けたかったため、クルマを所有している同級生が神奈川県に居ることを思い出し、借りることに。車種はレパード。快く貸してくれたのですが、このクルマはウチ(東愛知日産)から購入していて、「青ちゃんところで買ったクルマを、青ちゃんに貸すのか」と面白がっていました。
その後、週末になるとレンタカーを借りて、湘南や伊豆へとドライブデートを楽しみました。前日の深夜まで仕事をこなした後、丸一日運転するのは心身ともにかなりハードで、彼女を自宅へ送り届けた後、路上駐車してそこで寝てしまい、レンタカー会社への返却時間を超過したこともしばしば。店の人は「青木さんなら、いつもお世話になっているから大丈夫ですよ」と。それ程、頻繁に利用していました。

自動車産業 栄枯盛衰史03

縮小傾向にある自動車需要と
高まる軽乗用車人気

次第に収縮する経済状況下では、必然的に人々の財布の紐は固くなります。「自動車の車種別需要台数の推移」を見ると、1990年代の前半には全車種合計で700万台前後だったのが、2007~8年を境に500万台前後まで減少しました。また、軽乗用車の増加も顕著となっています。自動車の総需要に占める普通乗用車の割合を見てみると、1990年代から現在まで約50~60%で推移していますが、同じく軽乗用車の割合は、90年代前半の10%強から徐々に増え始め、2010年代に約30%へと急増。長引く不況の影響で、車両価格や維持経費の点で有利な軽乗用車の人気が上昇したものと見られています。

若者のクルマ離れ

過去の日本経済の景気動向を観察すると、1950年代の「三種の神器(電気冷蔵庫・電気洗濯機・白黒テレビ)」や1960年代の「3C(カー・カラーテレビ・クーラー)」のように、内需拡大によって好景気は支えられていて、その牽引役となったのは若者でした。ところがバブル景気が破綻した1990年代以降、若者の消費離れの兆候が表れ、とりわけ海外旅行や自動車の購入に消極的になったことが明らかになっています。
その背景に、非正規雇用の増加とそれに伴う貧困化があることは否めません。しかし、インターネットとスマホの普及により、若者の生活様式と金銭消費の構造が大きく変化したことも要因の1つと見られています。クルマに限定すれば、所有しなくても必要な時に使用でき、レンタカーよりも気軽に利便性を享受できるカーシェアリングの普及も、こうした傾向を後押ししていると考えられます。

ミニバンが主流に

1990年代以降の若者のクルマ離れに加え、顕著となったのが好みの車種の変化です。親子4人の核家族が増えた高度経済成長期、3ボックスのセダンがファミリーカーの主流でした。ところが1990年以降は、世帯の人数がむしろ減っているにもかかわらず、大人数が乗車できるミニバンに主役の座が移りました。
家族でドライブを楽しむにはセダンは最適なクルマと言えます。しかし、現代のクルマは、買い物や幼稚園・保育園の送り迎えだけでなく、子供のサッカーや野球チームの送迎や応援、友人とのキャンプやBBQ、ママ友家族とのお出掛けなど、使う目的が多様化。そのため定員5名のセダンよりも、室内空間が広くて定員に余裕があるなど、マルチに使えるミニバンが選ばれていると見られています。

青木のキャリア04

10年勤めたADKを辞め、先輩に誘われ共に広告会社を起業しました。数年間ベンチャー創業メンバーならではの激務も、プロデューサーとして着実に評価と実績を挙げる日々。そこに転機が訪ました。クルマを通じて社会的課題解決を追求することを決断。妻とともに豊橋にUターンし、東愛知日産に入社しました。豊橋に戻り、運転をしている時、妻から「人が居ないけど、どこに居るの?」と訊かれました。どうやら東京でしか暮らしたことのない妻の目には、人があまり歩いていない街中の光景が奇異に映ったようです。私は「皆、行き交うクルマの中に居る」と答えたのですが、都会と地方の違いを実感させられました。
妻はドライブならデート行きたい!としばしばリクエストする程、クルマが好きで、他メーカーのクルマを何台か乗り継いでいました。日産に入る以上、日産以外のクルマに乗り続けることもできません。しかし、東京に居た頃に私も何度か替りに運転したスバル・インプレッサは中でも、いい思い出も悪い思い出もたくさん詰まっているクルマでした。手放した時は悲しくて切なくて・・・・・・。こうした経験を持っている人は少なくないのではないでしょうか。クルマは単なる工業製品ではなく、恋人と大事な話をする場であったり、家族の楽しい時間を演出する舞台装置であったり、所有者がそれぞれの想いを積み込むことのできる特別な存在と言えます。いわば「一番大切な部屋」。自動車産業は既成概念や伝統・常識が根付いているレガシーな産業です。しかし、だからこそ未来の成功モデルを発明しうる産業であり、当社はチャレンジし甲斐のある環境だと思います。

寄り添う営業の大切さ

case1

中古のムラーノのオーナーのAさん。「ナビを見たい」と来店し、「説明させてください」と言っても取り付く島もない態度でした。それでも時折来店するようになり、短い時間ながら話に付き合っているうちにプライベートの相談もされるようになりました。クルマの用件かと思いきや、パートナーとご来店し、二人は結婚すべきか否かと友人のようにショールームでしばしば相談されることに。数年後、私が本社へ異動した後、Aさんは新車のエルグランドを購入してくれました。私の名前を出してくれたことから後任から報告を受け、納車当日、こっそりとサプライズで会いに行きました。数年ぶりの再会。なんとあの当時のお二人はご夫婦になっていました!「結婚してから青木さんに相談していた時のことを二人で思い出すことが多くって。気が付いたら数年ぶりに東愛知日産に来て、クルマも買っちゃった」。こう言われて、頼ってくれている人に応えることの大切さと頼られたことへの嬉しさを実感しました。

case2

親子で2週間に1度位の割合で来店し、しばらく店内で過ごして帰っていくBさん。来店しても冷やかし客だと思われ誰も相手にしていませんでした。せっかく来店した人を無視するのはおかしいと思い、私から話し掛けたところ、「ディーラーって夏は涼しくていい」と。それをきっかけに話をするように。最新の試乗車や珍しいクルマ、スカイラインやフェアレディZの試乗を毎回希望されて困惑する日々(Zはめったに試乗車が設定されないから)。でも30分ならお付き合いできると毎回試乗にお付き合いしていました。中古車店舗へ異動し、2年経った頃、Bさんが久しぶりに訪ねてきてくれ、セレナを買ってくれました。その時に「色んなディーラー行き続けたけど、相手をしてくれたのは青木さんだけだった」と振り返り、「一見、冷やかしっぽく見えそうなお客様でも、いつか買いにくる」と言ってくれました。ちゃんと対応していればニーズが生じた時に頼ってくれることが分かり、嬉しかったことを覚えています。
ちなみに2020年、数年ぶりに新型ルークスを購入してくれたことをFacebookで教えてくださり、有難くも永いお付き合いいただいていることに感激しました。

case3

以前、売上目標達成に向けて、どうしても軽トラックをお店で2日以内に売らなければならないという状況に。かつて東京で日産系のディーラーに勤めていて、東三河に引っ越してきて林業の仕事をしているCさんのことを思い出しました。Cさんとはとあるお客様が新車購入時に下取り予定を友人に譲渡するという話に変わって、紹介を受けたのが出会いのきっかっけ。ショールームでディーラーの営業マン時代のお話を伺いながら、乗られていたトヨタ車の点検からお付き合いが始まりました。すぐクルマを購入する予定が無いと分かっていても、点検やその他の情報提供で定期的に連絡を取っていました。そのため、軽トラックの件で「誰か買ってくれる人居ませんか」と紹介の相談しました。すると「買ってくれる人が見つかった」と2時間後に連絡。林業仲間を紹介してくれました。即日契約で店長や同僚が唖然としていた風景が忘れられません。後から同級生の父親だということが分かったのですが、細々とでも付き合いを切らさなければ、いざという時に力を貸してくれることもあると学びました。

自動車産業 栄枯盛衰史04

地球環境にやさしいクルマ

バブル景気が崩壊し、未だその後遺症を引きずっていますが、同時に地球環境を巡る問題が注目されています。
分岐点は1997年に国立京都国際会館で開催された第3回気候変動枠組条約締約国会議(COP3)。この会議で国ごとに二酸化炭素などの温室効果ガスの削減率が定められ、達成が義務付けられました。自動車は温室効果ガスの重大な発生源の一つであり、対策が求められました。そこでメーカー各社は、内燃機関と電池を併用したハイブリッド車や動力に電気を用いる電気自動車、水素と酸素の化学反応を利用する燃料電池車などの開発に着手。代表的なところでは、日産は100%電気自動車を、トヨタとホンダはハイブリッド車を発売しました。
これらの環境対応車は、世間の環境への関心の高まりもあって順調に市場を拡大。近い将来、自動車の多くは排気ガスを排出しないタイプになると見られています。

高齢者の事故を防ぐために

もう一つ、日本の社会全体にとっての問題が少子高齢化です。特に高齢化は重大な社会問題とされています。自動車業界においても、2005年に国内の総人口に占める65歳以上の高齢者の割合が20%を突破すると、この頃から高速道路の逆走やブレーキとアクセルの踏み間違いなど、高齢者による交通事故が増加。早急な対策が講じられ始めました。具体的には、運転者の意識の向上や高齢者の運転能力に対する的確な評価制度を実施。その上で運転免許の自主返納を促すなど、高齢者による交通事故の削減に取り組んでいます。

巨大化したレガシー産業

高度経済成長期に進化・発展を遂げた自動車産業。本体メーカーを頂点に、その傘下には部品を製造する一次・二次のメーカー、そこに資材を納入する加工会社など、多くの関連企業が存在。しかも国境を越えたサプライチェーンを形成、非常に複雑な構造となっています。さらに、車両を使用する運送業・流通業、交通機関をはじめ、あらゆる産業に直接・間接に多大な影響を及ぼすなど、国の屋台骨を支える基幹産業となっています。しかし、巨大化したことにより、小回りが利かなくなっています。社会は目まぐるしく変化し、消費者の心理もライフスタイルも、絶えず変化。例えば、EV化は非自動車産業からの新規参入を促し、まったく異なる視点からの製品開発を可能にしています。こうした現状に目を瞑り、既成概念の上に胡坐をかいたままでは、やがて本当のレガシー=過去の遺物となってしまうと危惧されています。

未来のクルマ

高齢化対策に限らず、交通事故の撲滅は社会全体の悲願と言えます。一時期の「交通戦争」と呼ばれた時代と比べれば、交通事故件数も交通事故死者数も激減してはいるものの、撲滅には程遠い状態にあります。つまり交通事故を減らすには、交通法規の厳罰化やルールの徹底、運転マナーの向上だけでは不十分だと言えます。そのためメーカー各社では、自動安全ブレーキを備えた「ぶつからないクルマ」を開発。その延長として自動運転技術の実用化も着実に進み、目的地を入力するだけで、運転に人がまったく関わらないフルスペックの自動運転車の登場も、そう遠くはないでしょう。

レガシーな企業だからこそける
グローカルな未来

当社が活動している愛知県東三河などの地方中核都市では、大都市圏よりもはるかに速いスピードで少子高齢化が進んでいるほか、地域間格差や実態上の待機児童問題、若年層の流出など、深刻な社会問題を抱えています。こうした諸問題を永田町の政治家や霞が関の官僚が考える、最大公約数的・総花的な施策で解決することはできません。なぜなら地域には地域の事情があるため。あらゆる病に効く万能薬はないように、全国一律の解決策はあり得ません。つまり、一つひとつの問題に向き合い、それに応じた適切な処方箋をつくることが必要なのです。
ここで大切になるのが地域で現実に起こっている現実を知ることと、それをビジネスによって解決すること。ボランティアという人の善意に頼るのではなく、採算性を意識して事業として成り立たせることこそが、永続的な社会課題解決の要諦だと考えています。
当社は自動車産業というレガシーな産業の枠に組み込まれ、かつ60年もの歴史を有しているレガシー企業と言えます。しかし、伝統に満足するのではなく、それを足場として未来を見据え、レガシー企業だからこそ持っている様々な財産を有効活用して挑戦すれば、周回遅れのトップランナーに躍り出られるはずだと考えています。
幸い当社には、豊橋市を中心とした地域での豊富な実績と膨大で分厚い顧客データの蓄積、お客様一人ひとりに寄り添う営業によって築かれた信頼という強みがあります。これらをベースに、既成概念や旧来の常識にとらわれない新規事業を興し、地域の課題を解決。豊橋、東三河というグローカルなエリアでのソーシャルビジネスの事例を築き、それを愛知県全体へ、日本全国へ、そして世界へと広げることも視野に入れています。
カーディーラーの概念を越え、グローカルな視点から人口減時代の日本社会の活力を一緒にデザインしませんか?